故障とその後 脚の故障から早くも2年半が過ぎました。 相変わらず、マラソン大会とは縁遠くなったままです。 2011年秋から2012年春にかけてのシーズンは、私のマラソン10年記念シーズンと位置づけた特別なシーズンでした。 8月の北海道マラソンを無事完走し、運良く2012年の東京マラソンにも当選、つくばマラソンにも申し込めたし、記念遠征の防府も宿が取れたし、順調なシーズンインでした。 11月のつくばでは久々に自己ベストを更新し3時間25分台を出し、その後も防府・勝田・東京と3大会連続して3時間半切り、3時間半を切れれば大満足の私にとってはもう最高のできばえでした。 さらに1月の谷川真理ハーフではハーフの自己ベストも更新するなど、マラソン人生10年の区切りのシーズンとして完璧なものでした。 ただ、疲れがたまっていたのか2月の東京マラソンではレース途中からは両ふくらはぎがパンパンに張っていたのが、今から考えたら異変の始まりだったのですが。 故障は突然でした。 東京マラソンが終わった直後、残るは3月の板橋シティと4月の長野マラソンとなった頃の2012年2月、日課の10kmジョグの最中に突然走れなくなりました。 両足のふくらはぎが固くなって張ってしまい走れないのです。 筋肉痛と違って痛みをおして走ることは無理、とにかく走れない。 かつてない異変に、さすがにしばらくは休足として近所の医者と整骨院に診てもらったところ、肉離れの診断でした。 ただレントゲンも撮らないでの診断ですから、結果的には誤診だったような気がします。 (両足同時に同じ部位が肉離れになるとは考えにくい、など) 数週間は走らずにいたのですが3月になっても走れる状態にはならず、板橋シティは欠場。 ずいぶん前に彩湖フルマラソンを欠場して以来、人生二回目の欠場です。 相当悩みましたが、どう考えても42kmを走れる脚ではなかったので寂しくてもったいない気持ちを持ちながら無念の欠場です。 でも故障の重大性には気がついておらず、4月の長野マラソンには治っているだろうと甘く見ていました。 ところが4月になってもろくに走れない状態は続き、長野は出るかどうか悩みました。 実は故障する前、放送大学に入学することを決めていたので、春からはサラリーマン大学生になることが決まっていました。 ですから大学入学という人生の節目の春に、是が非でも長野には参加したかったのです。 大学入学後、仕事と勉強とマラソン練習をどう両立するか悩むはずでした。 特に休日のマラソン練習は時間もかかるし終わったあとが眠くて。 しばらくは勉強優先にするしかないかなぁ、などと考えていたのですが、故障で走れないから悩まずに済んだのは皮肉なものです。 でも、放送大学のおかげで走れない喪失感はほとんど味わわずに済みました。 これが今までのようなマラソン漬けの人生だったら、走れないことはどんなにショックだったでしょう。 なんだか神様がいるような気がしてきます。 マラソンの神様が「10年間あれだけ頑張って走ったんだから、少しスローダウンしなさい」と言ってくれたのかもしれません。 あるいは学問の神様が「次はこっちだ」と引っ張ってくれたのかもしれません。 いずれにしろ、走りたくても走れない悔しさは、はじめての大学生活の影に追いやられてほとんど感じることなくすみました。 出るかどうか悩んだ長野マラソンですが、結局足を潰す覚悟で出場しました。 休み休み走れば5時間の制限時間内にはたどり着けるだろうとの読み通り完走はしたものの、自己ベストから1時間半近く遅いゴールは複雑でした。 実は怪我をする前から過熱するマラソンブームに嫌気がさしていて、今までのようにマラソン一筋の人生に疑問を感じていました。 5時間近くかけて完走した長野で見た風景は、1秒を争い3時間半を目指して走っていたときと同じでした。 あたりまえですが沿道の声援も全く同じ、1秒を追い求めることに徹していた私にはそれがなんだかショックでした。 1秒でも速く走る、そのために懸命の努力をする。 そうすることで今まで見えなかった「なにか」が見えたり感じたりできるような気がして今まで努力を続けてきました。 実際、初マラソンで6時間近くかかったときと3時間半を切る頃では、違う景色が見えました。 でも故障で1時間半も遅く走ったときに見えた風景は、3時間半の時とたいして変わりはしなかったのです。 それが少しショックでした。 自分は何のために走っているんだろう、走る意味を喪失しつつある気がしました。 過熱するマラソンブーム、混雑するコース、1秒にこだわる価値観の揺らぎ、なによりも大学卒業という大きな目標。 通信制大学という新たな目標は、マラソンよりもはるかに大切なものになっていました。 長野以降は痛む脚で10kmジョグを続けながら、治る気配のない脚を恨んではいました。 が、それも走っている間だけ。 家ではひたすら勉強の日々ですから、まともに走れない悔しさを感じるヒマがありません。 ですからきちんと走れないストレスは思ったほど感じませんでした。 本当に最高のタイミングで入学できたと感謝しています。 こんな状態で2012年も6月になりました。 6月は8月末の北海道マラソンに向けて暑熱馴化のために毎年出ている喜多マラソン(フル)です。 喜多マラソンには一応参加はしましたが、長野より多少はマシとはいえ4時間半を少し切る程度、相変わらず練習での42km走よりも遅いタイム。 この時点では「北海道マラソンに間に合わないかも」とまだ甘く考えていました。 (タイムはともかく出場できると甘く見ていた) この頃には平日10km、休日20kmのジョグをしていました。 全く走れなかった一時期よりはマシになり、ゆっくりなら走れるようにはなりましたが、脚の違和感は消えません。 そんなある日、20kmジョグの途中でまた両方のふくらはぎが固く張って走れなくなりました。 ペースダウンではなく、全く走れない。 さすがにこれはまずいと思い(気づくのが遅いんだけど)、知人の紹介で自宅から数駅先の整骨院に通いました。 そこでの診断はコンパートメント症候群、まず1ヶ月間はプールも含めて下半身の運動一切禁止を言い渡されました。 この1ヶ月がきつかった。 言いつけ通り、1ヶ月はなにもしませんでしたが、案の定、運動しないのでじわじわと体重は増え体型は崩れます。 そのストレスたるや。 汗を流せない辛い1ヶ月が終わっても、治るどころか悪化している気すらします。 無理矢理走っていた今までの方がまだマシだったような感じです。 医者からは「あと1ヶ月おとなしくして、それでもダメだったらトップアスリートを診るような専門医を特別に紹介する」と言われました。 でも、あと1ヶ月で治る気はしませんし、その医者を紹介してもらったところでまた「しばらく走るな」と言われるだけでしょう。 先生には失礼ながら、思い切って医者を変えることにしました。 すぐに駆け込んだのは、以前から当たりを付けていた某大病院のスポーツ専門医。 改めてレントゲンやMRIで検査したところ、診断はシンスプリントでした。 ジョグもウオークも禁止だがプールならいいということで、さっそくプール通いの日々を続けました。 とにかく汗を流さないと気持ちが悪いのです。 数ヶ月が経ち、骨を押した時の痛みがやわらぎ、少しずつ回復しているようで、短いウオーキングの許可が出ました。 この頃は毎月病院に行きましたが、大病院ですから予約しても数時間待ちで診察は数分。 平日に仕事を休むのは大変だし、ぶっきらぼうな医者で先の見通しもろくに説明なし。 ただ半年やそこらで治る怪我じゃないことだけは伝わってきました。 本格的なリハビリの許可が出るのに、あと数ヶ月はかかるでしょう。 そこから嫌になるぐらいゆっくりしたペースでリハビリをするのでしょう。 急に距離やスピードを増やすと、また故障する危険がありますし、元の状態に戻るにはどう考えても1年半から2年はかかるでしょう。 それだけの時間をかけても戻る保証はないのです。 途中で再発したら、また振り出しに戻るのです。 汗をかきたい。 太りたくない。 1年も2年もろくに走れない生活をしてまでレースに復帰する価値はあるのだろうか。 すでに故障前(入学前)と今ではマラソンに対する価値観が変わっています。 そこまでして大会復帰を目指すことに意義が見いだせません。 もし仮にレースに復帰できたとしても、故障から数えると3年は過ぎているでしょう。 私の年齢で3年間を棒に振るのは体力的に相当なハンデです。 1秒を争うのが私のマラソン、はたして3年のハンデを抱えてまで復帰を目指す価値はあるのかな。 そもそも、1秒を争う価値はあるのかな。 2012年の冬、色々考えた上で治療は放棄しました。 治療といっても医者に行くことと走らないだけですから、要するに医者には行かず勝手に走り出したわけです。 QOL(生活の質)と残りの人生を考えたら、レースに復帰することよりも、日々汗をかき体型を維持する方を選んだのです。 その後、自己流で少しずつ走る距離と頻度を増やしながらリハビリのようなことをしました。 でも距離は10kmまでに自主規制し、速度は再発が怖いし身体もついていけないのでキロ6分半から7分です。 2013年の秋には2ヶ月休みなしで走ることもできるようにはなりました。 ただし、距離も速度も伸ばせないのでランではなくジョグだけですが。 時々、膝が痛んだりふくらはぎに違和感が出たりするたびに休養を入れながら、コンスタントに月に200kmから250km走れるようになりました。 もっとも2014年になって膝を痛めてからは、まずウオーキング1km強をして残りはジョグですから、月間「走行」距離としては1割引しないといけませんが。 どこかで区切りをつけて引退宣言をしようと思っていました。 どこかの大会に出て、そこを引退試合にする、ランナーとしての葬式をだしてやることも考えました。 ただ、どこかに未練があるんでしょうか。 それとも持論である「プロレスラーと市民ランナーには引退はない」という気持ちが強いのかな。 いずれにしろ、一応まだランナーではあります。 ただ、生活はすっかり「元」ランナーです。 ウオーク&ジョグしかできずマラソンの練習にはほど遠いのですが、それでも汗を流せるし体型も維持できる。 レースという楽しみはなくなったけど、大学という大きな目標があるので喪失感はありません。 むしろ、レースに会わせて体調管理をして、日曜に早起きする生活から解放されてせいせいした気もします。 混雑するコースにいらだつこともないし、気が楽です。 もうレースに復帰できる気はしませんから、ランナー時代と違ってよけいな筋肉を付けても問題ありません。 どうせ復帰もできないだろうから2014年の春から上半身の筋トレをするようにしました。 モヤシのような腕が少しですが太くなりましたし、肩も背中も多少は筋肉が付きました。 大学の方は非常に順調で、当初は6、7年で卒業できればいいと思っていたのですが、勉強漬けの日々のおかげで来年春時点(2015年3月、入学して丸3年)で卒業必要単位まであと5単位になる予定です。 残りの1年間で5単位取得なら楽勝、4年間での卒業は確実です。 ということは大学の勉強に集中する生活は来年春まで、そこから先はどうするかは検討中ですけど、何らかの形で学び続けることは決めています。 マラソンの方ですが、2016年の長野マラソンには大学卒業旅行として参加したいと思っています。 でも、それ以外の大会は積極的に出たいとは思えません。 なにしろ故障前のような練習はできない。 (脚が言うことを聞かない) 満足な練習もしないで出るマラソン大会は、つまらないものです。 マラソンは十分に練習した選手がその力を発揮するのが醍醐味だと思うのです。 次の大会が復帰戦になるのか、はたまた引退試合か。 まあ、どちらにしろここまでのマラソン人生は実に幸せでしたし、マラソンは私の人生の宝物であり続けますが。 医者によって異なる病名でしたが、コンパートメント症候群と診断されたとき手術も考えました。 医者曰く、急性なら手術適応でが慢性なので手術は不適応とのことでしたが、調べたら京都の方で慢性コンパートメントでも手術をしてくれる医者が見つかりました。 ただ、両足の手術ですから入院中は下の世話をしてもらうということに抵抗があり、また手術で治る保証もありません。 (そもそも本当にコンパートメントかも怪しい) その後、別の医者でシンスプリントと診断されたこともあって入院治療はうやむやになりましたが、結果的には手術という選択をしなくて良かった気がします。 症状としてはふくらはぎの張りと固くなる感じですので、コンパートメント症候群がしっくり来ます。 しかし大病院の医者はMRIと触診で向こうずねの骨を押すと痛いことからシンスプリントと診断しました。 どちらにしろ走るなということですから、なんかもう病名なんてどうでもいいです。 結局は治療をやめてズルズルと走る人生を選び、その結果3年目になる今も回復していません。 私の経験からなにか教訓をお伝えしたいところですが、残念ながらなにもありません。 走りすぎにご注意と言わないといけないのでしょうが、たかだか月300km程度で、しかも負荷も大してかけていないのに故障したのですから、注意のしようがない。 疲れがたまったら走るなと言うべきかもしれないけど、その程度でいちいち休んでいたらマラソンの練習などできません。 一応、「休むのも練習のうち、年相応に脚もダメになってくるから気が若くても身体は正直ですよ」とだけ言っておきましょう。 でもタイムマシンに乗って故障前の私にこの言葉をかけても、言うことは聞かずに同じように走って故障するんでしょう。 そんなものです。 ランナーは走ってこそランナーですからね。 |